雑多語録 〜叱られる前に悟れ〜

記されている事柄全てを鵜呑みしてはいけない。常に疑うことを忘れない精神を持って欲しい。

深追

 

よく人々は、様々な面で深追いをするなと言ってくる。

 

何故なら知り過ぎる事は自らを死に陥れる事を

示唆しているのかもしれないから。

 

それ懸念して、言ってくるのであろう。

 

考えてみて欲しい。

 

深追い、つまり深く追うという事は、先にいる人間を追う行為である。

 

裏の社会に関してするのであれば、多大なリスクを伴う事もあるかもしれない。

 

しかし決して、この行為はしてはいけない事はないのだと言いたい。

 

既にそこに居座っている者こそ、罰せられるべきなのだ。

 

つまり私が言いたい事は一つ。

 

逃げるより、追え。

 

ただ、追う限り、先駆者にはなれない。

それでも構わぬものは追うのだ。

 

 

「 常に私は、

                              鬼で有れれば。 」

 

 

 

 

 

道程

 

人それぞれ辿る道というものは違う。

 

自分が目指している道が、ある人にとっては邪の道であるかも知れない。

 

自分が目指すべき道ではないと感じる道も、誰かの目指す場所であるかも知れない。

 

人生に於いて、道は前にしか無いらしい。

 

 

では、前進する、とは何なのか?

 

前とは何処か。

 

自分の見えている世界が前ならば、後ろも前になる。

 

後ろに振り向けば、それは後ろではなく、前になる。

 

横を向けばそこが自分の前になる。

 

成る程、道は前にしか無いのではなく、

 

私達は、前を"向かざるを得ない"のである。

 

懐古することは、人生への反逆を意味するだろうか。

昔はよかった、それを言うだけで人の成長はそこで止まる。

 

それもまた、良きかな良きかな。

 

選択肢は無限に存在するのだから。

 

 

「ダルマもまた

                       転ばざるを得なかった…?」

 

 

 

 

 

 

暗夜

 

この時期は特に、夜が長い。

夏でいう夕方も、冬では夜と化す。

 

星々が目を覚ますのも当然の如く早い。

今宵の三日月もまた、満遍の笑みを浮かべ、

私たちを見下ろしている。

 

そうかそうか、そんなに嬉しいか。

心すら見透かされているのではないかと思いつつも街灯に照らされた道路の真ん中を優雅に歩く。

 

闇は、深い程に自分を見失いかけない。

光に頼るな、とは言わない。

だが、頼り過ぎても足元を掬われるだけだ。

 

道を照らす光がある事を当たり前と思ってはいけない、、、

"当たり前"は、速攻で消滅する。

子供の頃の風景も、大人になれば変わる。

 

当たり前の事など、一つもない。

 

そう、我々の人生という名の旅路もまた、

当然のルートなど存在しない事を、此処で言わせてもらおうではないか。

 

 

「過ぎ行く日々は、

                        まるで吹き荒れる風だな。」

 

 

 

 

暗示

 

新たな生命の誕生は常に輝かしいもの。

 

時には愚かに感じ、産まずに捨てるもの。

 

代わりなど、絶対に無い。有り得ない。

 

ノーと答える人は少ないだろう。

 

幕を開ける前に、閉ざされた命。

 

開けれたはずの扉を、開けるなと止める誰かの手。

 

穢れたその手を握る事は、無理である。

 

 

                DEATH..

 

 

異端

 

いつの時代も、異端者は、迫害され、冒涜と決めつけられ、罰せられた。

ただ皆と違う思考回路を所持しているというだけの理由で。

 

正統から外れている、それが異端。

ならば、正統とは何か?

何が正しくて、何が間違いなのか?

それを決める者は本当に正しい判断をしたのであろうか?

それはもう、迷宮入りでしかない。

 

 

異端であることを恥じる時代は終わった。

我々を縛る物は何も無くなった。

生き易いようになったものだ。

 

孤独を恐るな、自身の思想を疑うな。

 

 

 

孤高であれ。

 

 

 

常に異端であれ、異質であれ、異物を取り込め。

 

正義は常に自分の中にある。

 

「他人に合わせるだけのイエスマンに、成るべきではない。」

 

 

 

 

 

私にとって、死とは永遠のテーマであり、追及するが末は見えないものと認識している。

 

人は必ずそれを経験する。人生は死ぬ事で完成する。

愛する人、尊敬する人など、そのような人が死ぬ時は涙する人も居るのではないか?

哀しむ気持ちがわからない訳ではない。

 

が、しかし、私は喜ばしいものと感じる。

やっと死ねたのだな、と心の中で拍手、賞賛する。

私にとって、死とは最大の願望である。

数多いる学者、著名人、偉人、犯罪者、小説家、音楽家など。

彼等は死して尚、偉大だと称賛され続けている。

それは、何故か?

無論、死んだからである。死ねたからである。

人は死んでやっと、完璧になる。完全になる。

 

死を恐怖するものは、何故怖い?

死の先が何か分からないから不安になるのか?

そんなもの考えるだけ無駄である。

その死の先へ行かない限り、結論などでないのだから。

 

産まれ付いた瞬間に、死は隣に来るのだ。

死と隣り合わせ。 死、合わせ。

"幸せ"。これは私の持論でしか無い。

 

自殺願望者たちよ、死にたいのならば死ぬがいい。

私を君達を誇りにすら思う。

先に逝っててくれ。 

 

 

どうせいずれ、皆逝くのだから、な。

 

「世の悲鳴は、奏でる。美しい哀唄を。」